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弓の名人がお坊さんに [歴史]

源平合戦、屋島での戦いの時、平家方が小舟に扇を上げ、これを射るよう手招き、源義経の命令で当時17歳だった?那須与一が馬上より弓を射ち見事的中させたのは有名な話です

17年後、那須与一は浄土宗の開祖 法然に弟子入りし那須家から支援を受けなが西国に向かい源平の合戦で戦死した人々を弔って歩き、神戸市の北向八幡神社に滞在中病死します

この境内には那須神社もまつられお墓もあります
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平家一門に生き残り [歴史]

 壇ノ浦で平家は滅亡し、生き残った者は落ち武者として隠れてひっそり生きていた。
ところが生き残りひっそりどころか政界に復帰した人物がいました。

その人物とは、平清盛の義母弟、平頼盛
清盛の父、平忠盛の五男ながら母親は一門の中で強い発言力を持っていた池禅尼であった為、息子である頼盛は清盛の長男、重盛に次ぐ地位にありました。

しかし清盛とは合わず対立していたようです

1183年7月、 木曾(源)義仲に攻撃を受け、自宅に火をかけ、一門と一緒に落ちのびたのに「忘れ物をした」と言って引き返しました。

翌年には源頼朝より領地を返してもらい 権大納言 として政界に復帰しました。

清盛の孫であり、重盛の長男 維盛は許されず自害に追い込まれました。

何故頼盛だけが助かったのか?
頼朝が平家に囚まった時、池禅尼が清盛に助命を頼み、その恩を頼朝が返したのではと思われています
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絶世の美女の晩年 [歴史]

 平安時代に100首あまりの歌を残し『古今集』には18首 絶世の美女と言われた小野小町 今でも美人の事を〇〇小町と言っていますが出自 生い立ち 晩年の事はわかっていません

18歳で宮中に入り、天皇の寵愛を受け、宮中一と言われ,宮中を去ってから多くの男達から求愛されても全て拒み通しました。

晩年の事は 醜態をさらし、みすぼらしい姿で諸国をさまよった挙句生き倒れ、小町のドクロの目からススキが生え、人が通りかかると「痛い 痛い」と泣いた。と謡曲の『関寺小町』『鸚鵡小町』『卒塔婆小町』で謡われていますがこれらは伝説で事実はわかっていません

 はなのいろはうつりにけりないいたずらにわがみよのふるながめせしまに と盛りが過ぎた花の寂しさを歌った一首が『百人一首』にあります

寂しい晩年を過ごしたのかもしれません 

出世はしたけれど 大岡越前守忠相 [歴史]

 名奉行と言われた南町奉行大岡越前守忠相(ただすけ) テレビドラマでは加藤剛出演で放送され、確か最終回は1万石の大名に出世し、メデタシメデタシでしたが、事実はすぐに大名になったのではなく、寺社奉行に栄転になりました。

寺社奉行は3奉行(勘定奉行 町奉行 寺社奉行)の最上位に当たり奏者番である1万石以上の譜代大名が普通であり、他の寺社奉行にしてみれば面白くなく、例えば大岡忠助が寺社奉行として初めて江戸城に入った時には他の寺社奉行達と同じ部屋に入ろうとした時「ここは奏者番の控室だから入ってはいかん」と入れてくれなかった為、将軍吉宗は隣に控室を作ってやったとか

その後72歳になって1万石の大名となり奏者番になれましたが、奏者番は声を上げなければなりませんが、声が小さいと叱られ進退伺を出したそうです

晩年は恵まれなかったのです

奏者番とは コチラ
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